kenji and shikonzome

宮澤賢治と紫根染

岩手が誇る詩人・童話作家の宮澤賢治が『紫紺染について』という小品を残しています(賢治は紫根染の『根』をわざと『紺』と書いたものと思われます)。

中津川における布さらし

南部紫根染研究所

紫根染は日本に古くから伝わる草木染で、南部藩政時代には藩の手厚い保護の下に生産されていましたが、明治の時代になりその保護が解かれてからは、盛岡地方には伝統技法を伝える人が完全に途絶えてしまいましたが、大正5(1916)年に、紫根染を復興させるため県の主唱により紫根染の研究が始まり、秋田県の花輪地方にかろうじて残っていた技街者を招いてその技術を学び、その後大正7(1918)年南部紫根染研究所」が設けられたという経緯がございます。

その後、昭和8(1933)年、南部紫根染所究所の主任技師であった先代藤田謙が独立し、現在の地に「草紫堂」を創業しました。

宮澤賢治の作品『紫紺染について』は、一度は途絶えた紫根染の技法を唯一とどめていた西根村の山男を招き、研究所の人々が教えを受けるという内容となっています。
「さて紫紺染が東京大博覧会で二等賞をとるまでにはこんな苦心もあったといふだけのおはなしでありました。」(『紫紺染について』より)とあるように、宮澤賢治は、大正11(1922)年3月に開かれた平和記念東京博覧会に、南部紫根染研究所から出品した紫根染の製品が始めて入賞した事を報道で知り、その感動をこの作品の中に込めたのではないかと思われます。

宮澤賢治『紫紺染について』を読む

旧盛岡高等農林学校本館(重要文化財)
【現岩手大学農学部、附属農業教育資料館】

宮澤賢治は大正4年(1915)4月、盛岡高等農林学校【現・岩手大学農学部】農学第二部【大正7年農芸化学科と改称】に入学、大正7(1918)年3月卒業後研究科に残り、研究生として大正9年5月まで在籍していました。在学中に南部紫根染研究所が設立され、高等農林学校は設立に大きく関わっていることから、宮澤賢治も紫根染の復興を間近に見ながら、紫根染の将来に大いに可能性を感じていたのではないかと思われます。

そこでこのページでは、宮澤賢治の『紫紺染について』を出発点として、宮澤賢治そして紫根染についてのさまざまな情報を掲載して行こうと思っております。

『紫紺染について』のこと

賢治は大正4年4月盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)農学第二部(大正7年農芸化学科と改称)に入学、仝7年3月卒業後研究科に進み、9月迄賢治の故郷稗貫地方の土性調査に当っている(在籍は大正9年5月迄)。

賢治の在学中は丁度紫根染研究所の草創期に当って居り、県は紫根染をはじめ、石灰石、硫黄等の鉱物資源、農林、畜産資源等の産業化を目指したさまざまな研究を高等農林に依頼している。土性調査のスタッフの中に戦後盛岡市長になられた、当時助教授の小泉多三郎先生も居られ、先生は後に紫根の栽培実験をされていたと父から聞いている。賢治はこれ等先生方の御苦心を身近かに感じながら学生生活を送ったわけだが、花巻の農学校に奉職した頃、大正11年3月、平和記念東京博覧会に紫根染が初めて入賞し褒状を受賞、貞明皇后陛下からお褒めのお言葉を戴き、お買上げ戴いたという報道を新聞紙上で読み、又県産品が、北海道、沖縄の特別館を除く入賞率及び売店の販売高で、共に全国第二位の成績を収めたことを知り(岩手日報及び岩手毎日新聞 大正11年8月2日付)、その感動をこの作品の中に込めたのではないかと思はれる。

当時の賢治には「精神歌」、”春と修羅”の巻頭を飾った詩「屈折率」や「くらかけの雪」「日輪と太市」、又妹トシさんの死を悼んだ「氷訣の朝」等の賢治文学を代表する様な作品を発表しているが、それ等の作品の中にあつて一味違ったこの作品は、その行間から賢治の感動が直に伝わって来る様な気がして、こゝに掲載させて戴いた次第である。

藤田謙の作品と賢治

明治維新以後完全に絶えていた紫根染の再興を計り、岩手県染織試験場内に紫根染研究所が置かれ、父謙が主任技師としてその研究に取り組んだのは大正5(1916)年10月の事ですが、大正11(1922)年3月、初めての紫根と茜の染分けに成功した作品を平和記念東京博覧会に出品し、褒状を受賞しております。それが貞明皇后陛下のお目にとまり、御買上げの栄に浴しました。賢治の『紫紺染について』に出て来る東京大博覧会とはこの平和記念東京博覧会のことではないだろうかと思います。

賢治が盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)農芸化学科に入学したのは大正4(1915)年の事でありますが、大正3(1914)年第一次世界大戦が勃発、資源輸入が困難となるに伴ない、国内資源の見直し運動が全国的に起こり、岩手県でも大正6年6月、臨時工業原料調査会が発足いたしました。賢治の高農時代の恩師の関豊太郎先生(地質学)、上村勝爾両教授(林学)も委員に依嘱されております。その一環として紫根染も取り挙げられ、その報告書の中で高農の竜清光(後、田畑と改む)教授が紫根染に関する詳しいレポートを書いて居られます。この様な環境の中で学生時代を過ごし、家業の質屋業を嫌って農民芸術の世界に入って行った賢治にとって、その成果の一つとしての紫根染の受賞は、一入の喜びではなかっただろうかと推測いたします。

一方父は大正13(1924)年、昭和天皇の皇太子時代、自らの作品献上のため社主の貴族院議員中村治兵衛氏と、赤坂の東宮御所の大奥まで参内する光栄に浴し、又昭和3(1928)年には盛岡地方で挙行された東北陸軍特別大演習の砌(みぎり)、物産展示場に展示してあった「紫根染・茜染クッション、一組」を、夜お宿舎に入られてから「今一度見てみたい」と仰せ出され、お買上げの栄を賜っております。更に昭和49(1974)年には父の最後の作品となった「植樹文絵羽着天」を謹製、香淳皇后陛下に献上申し上げる等、数々の栄に浴しております。

父謙の初めての作品が貞明皇后陛下から御嘉納戴いたことが、賢治に深い感動と影響を与えた紫根染を、もっと多くの方々に触れて戴きたく、又21世紀が日本の伝統文化にとっても、新たなる発展の年になることを祈っております。

宮澤賢治と紫根染

大正11(1922)年3月開催の平和記念東京博覧会で、母校の先生方が苦心して研究した成果の一つとして、紫根染が東都で高い評価を得、貞明皇后陛下のお買上げを頂いたこと(8月2日付岩手毎日新聞掲載)は、賢治にとっても一入の喜びであったと同時に、現在の安定した教師としての自分に少なからぬあせりを感じていたのではないでしょうか。ユートピアを目指し豊かな農民生活を願っていた賢治が、物語りの中で『アスパラガスやちしやのようなものが山野に自生する様にならないと産業もほんとうではありませんな』と山男に言わしているのは、賢治の偽らざる感懐ではなかったでしょうか。

その様なさ中、同じ年の11月最愛の妹トシさんを亡くしたことでその思いを一層募らせ、翌年1月には自作の作品の入った大きなトランクを持って上京し、原稿の売り込みに奔走しますが、思うような成果が得られぬまゝ帰花しております。

大正14(1925)年7月、草野心平氏主宰の”銅鑼”同人への勧誘を受け、仝年11月、校長が交代したのをキッカケに退職し翌1月には東京に出る決意をしますが、校内に短期農村指導者養成の国民高等学校が開設され、賢治はこゝで「農民芸術」を講義する事となります。その講義の中で、19世紀「ユートピア便り」のウィリアム・モリスの「有用な労働」、「労働者の喜び」論に大きな影響を受け(斉藤文一氏、”宮澤賢治の空中散歩-紫根染とユートピア”、酪農事情 1992 vol. 52 6月号より)、のちに発表した「農民芸術概論綱要」の中心的概念となった「世界が全体真実に幸福にならないうち一人の幸福はあり得ない」と伊藤清一氏のノートに残されています。

大正15(1967)年3月国民高等学校の卒業式が終ると同時に、花巻農学校を依願退職し、上京をあきらめ自らの理想実現のため一百姓としての道を歩き始めたのです。のちに賢治は「花巻農学校の4カ年は、わたくしにとって実に愉快な明るいものでありました」と回想しています。粗衣粗食に耐えながら、荒地を開墾したり、農民の肥料設計に応じたり、母校の恩師、関豊太郎先生の研究テーマであった、肥効もあり、土地改良剤としての炭酸石灰の宣伝販売に力を尽くすなど、体力を消耗しつくし、昭和8年9月37才の若さで遂に帰らぬ人となりました。「雨ニモマケズ」の詩は最大の賢治理解者であり、最愛の妹トシさんに捧げた祈りであると共に、自らに対する祈りと誓いではなかっただろうか、と思う次第です。

(学習研究社:昭和55年刊<人と文学シリーズ>『宮澤賢治』堀尾青史氏の年譜を参考にいたしました)